ちょっとした余生

20代を全力疾走したせいで 今はちょっとした余生のよう

水曜どうでしょうのOPで母が脅える理由

 

私は水曜どうでしょうが好きだ。

きっかけは多分、YouTubeでたまたま見たとかだと思う。

同じ回を繰り返し見たって笑えてしまう。

大泉洋のぼやき、時折あるクオリティの高いモノマネ、藤村D大泉洋の掛け合い罵り合い、鬼畜な企画を提案しがちなミスターが時にうって変わって辛い目に遭ってしまう展開、たまに出てくる安田顕(またの名をonちゃん)、嬉野さんは言葉数は少ないものの一言一言にユーモアが効いてる。どこを取っても面白いのが水曜どうでしょうの良さだ。

 

なぜそんな番組のOPで母が脅えるのか、それはトラウマにしてしまった私に責任がある。読む人によっては重い話になるかもしれないので注意してほしい。

 

私は数年前に高校卒業後から6年勤めた会社を辞めた。理由はブラックすぎて心身共に壊れてしまったからだ。

その会社を辞めるに至るまでには結構な時間を要した。なぜなら心身ともに壊れたことに気付かなかったからである。今思うと、いつから壊れていたのかすらわからない。

 

当時勤めていた会社はギリギリまで決まらないうえに短納期が常なので朝も夜も休みも平気で仕事になってしまう環境(定時に仕事持ってこられて深夜まで作業は当たり前)

データの処理や機械の操作、仕上げの手作業すべて1人でこなさなければならなかった。それなのに給料は今思うと笑えるほど少ない。昇給年1,000円。最初の数年は会社が傾いてたのでボーナスなし。ぶっちゃけ赤字で推し追っかけてた。

その反面、この俺様がどんな仕事でも納めてやってんだから好きにさせろよと、社内で1人金髪だったり毛先ピンクだったり奇抜なこともやっていた。ジャージにジーパンだったし。作業部屋では好きな曲流したり、LIVEDVD流したり。

そんな強気のスタンスが故なのか、会社での呼び名は「お嬢だった。笑える。

仕事のスケジュールを見て計画していたとは言えライブも行ける環境だった。自分で調整しているのが大前提とはいえ、好きにできている部分があるからこそなかなか自分の不調に気づけなかったのだと思う。自分の妙な器用さが仇となっていた。

 

いつだったか覚えていないけど、ある日突然、寝るのが怖くて寝れなくなった。スーパーおねんねベイビーは大人になっても健在で、帰ったらすぐ寝るし、休みの日もずっと寝ているのが幸せって人間だったのに。

活字中毒で、どんなに忙しくても毎月結構な量の本を読んでいたのに、まっすぐ文章が読めない。指でなぞりながら読もうとしても次の行にいけない。

帰宅して自分の部屋でひと息ついたときに、勝手に涙が出てきた。悲しいことなんてなにもないのに。

そして、朝会社へ行く準備はできているのに、体が動かない日があった。なんか行きたくない。自分はなんて怠け者なんだと思って自己嫌悪してしまう。準備したんだから行けばいいのに、行きたくない、行きたくないと思う自分が情けない。この負のループ。仕事は待ってくれないので、日中休んで夕方から会社へ行って朝方まで仕事してまた休むという謎シフトで仕事してた。やることはやっているのに、ダメな自分への自己嫌悪しかなかった。

 

Twitterはスタンダードなコンテンツになりはじめてすぐから使っていたけど、いつの間にか仕事の愚痴ばかり呟いていた。見てくれている友達は、ある意味私より早く私の異変に気づいていた。最初はよく見る軽い愚痴だったのだが、どうも常軌を逸していたらしい(恥ずかしすぎる)

いよいよ寝れなくなり、突然涙が出始めた頃、友達から病院に行ってみたらどうかと言われた。Twitterも様子がおかしいし、何かあるかもしれないと。

深く考えることもできなくなっていたので、すんなり病院に行こうと思えた。寝れないのが何のせいかわかるなら、助けて欲しいとすら思った。

 

仕事が落ち着いたタイミングで有給をとって心療内科へ行った。睡眠障害で調べるとそう出てきたからだった。風邪ひいたみたいなノリで、お薬なんか出してもらって、すんなり終わると思っていた。

先生がいる部屋へ案内されて、聞かれたことに答えていった。なぜか涙が出た。

悲しいとも苦しいとも思っていなかったが、涙が止まらなかった。これがプロの技か・・・

診断は、睡眠障害適応障害。原因は仕事のハードさと職場の人だった。

その分好き勝手やってんだからいいんだと思っていたけど、忙しさや私1人に任して帰る人々に、体はちゃんと拒否反応を出していたことに自分が気づけなかったらしい。

心の複雑骨折だと言われた。体も骨折したことないのに。

仕事をやめて環境を変えるのが一番の治療だと言われたものの、それは無理だとしか言えなかった。自分が仕事のせいで病気になったとわかってもそう言い切ってしまうところが、今思えば日本人って感じ。

ただ、治療の説明を受けて、薬局で薬を処方してもらってビルの外へ出た時、すごく気持ちが晴れていた。自分がおかしいのには理由があったんだ。なにも見えない霧のようなものがスッとなくなったような気持ちになっていた。それでも夜は眠れないんだけど。

 

帰りがけに、適応障害の本を買った。家に帰って読むと、これ私のこと書いてる?というほど内容が今の私そのものだった。

 あぁそうか、私病気になっちゃったかー。スッキリしたあとにズドンである。

母には、謝られた。自分でも怠けていると思っていたし、母もそう思っていたんだと思う。普段ふざけたことばかり言って底抜けに明るかった私がいつの間にか追い詰められたことを知って、心を痛めていた。とてつもなく申し訳なかった。

 

渡された紙に体重と睡眠時間を書いて、睡眠薬を飲んで横になる。翌朝は、鈍感になるお薬というのを飲んで、仕事へ行く。この鈍感になるお薬がすごい効く。いつもはイラッとして手が震えるようなことでも受け流せる。ただ16時になるとぴったり効果が切れる。定時まであと1時間半あるのに。すると途端に心が乱れて手が震える、Twitterで荒ぶる(笑)

 

わりとすぐに上司に病気のことを話すことにした。なーに恥ずかしいことではない。仕事のせいで病気になったんだから権利を主張しようじゃないの。病気になっても権利を勝ち取るスタンスは変わっていない。こんなんだから病気って気づかないんだよな、と自分でも思いながら会社のパソコンで病気についてのページを印刷しまくった。

そうして出来た厚めの資料を添えて上司に話したところ、首脳陣が集まってもう一度説明となった。小さい会社ってすぐこうなる。

その後、原因となった人が呼び出され、しばらくして戻ってきたその人に泣きながら謝られた。いや、違うだろ首脳陣。おじさん集団のため、お粗末な対処をされてしまった。

その人は、原因ともなったけど一番良くしてくれた人でもあった。嫌いではなかったし、お世話にもなった。だから病気に気づけなかったというのもあるけど。

ただ、謝られたらワシ治るのかよ?が本音だった。首脳陣にもご本人にもそんなことをして欲しかったわけではない。許せません、とは言えんだろ。言えるほど今強くない、と思った。

当初は会社に残る選択をしていたし、部署替えだとかいう話にもなっていたが、他にも???となる対処が続いたので、病気が悪化(笑)

会社を辞めるという結末になった。

 

 

水曜どうでしょうの話どこいった?って思うでしょう。

実は病院に行く少し前、推しも見る気になれない、本もまともに読めない、となったときに出会ったのが水曜どうでしょうだった。寝れないときも、朝準備しているときもiPad水曜どうでしょうを流していた。モヤがかかった脳内でも水曜どうでしょうの面白さは届いたのだ。

深く考えずに見れることと、誰も傷つかない笑い、これがとても心地よかった。

病気がわかってからも、いくつかのシリーズを繰り返し見ていた。何度見ても飽きずに笑えるからだ。

 

私の部屋は台所の横にある。台所を主戦場にしている母は、水曜どうでしょうを見ている私をよく目撃していた。

母がのちに言うには、iPadから大泉洋たちが笑っている声が聞こえるのに、私はそれを魂の抜けたような顔で見ていたらしい。その表情がトラウマになってしまったようで、病気が完治した後もたまに見たくなって見ているときに水曜どうでしょうのOPが聞こえると部屋にやってきて、「何か悩んでることある?」と聞いてくるようになった。

母なりに、あんなことになる前に早く解決してあげようと思って声をかけてくれるんだろうが、初めて聞かれたときはびっくりした。なんだ急に?と思った。

理由を言われて納得したし、申し訳ない気持ちが増した。子供が親にトラウマ植え付けるってなんて親不孝なんだろう。それと同時に、魂抜けた顔して見てる娘をそっとしておいてくれたことをありがたく思った。触れられないほど魂抜けてたのかもしれないけど。

 

でも、今はうるさいって言われるほど笑いながら何度も見たエピソード見ている。これが元気になった何よりの証拠だと思う。

環境を変えることが一番の治療ですと言われたのは間違いなく、ニートを1ヶ月もするとニートでいることに早速耐えられなくなり、二ヶ月になる頃には就活して今の会社に入社した。定時で終わるし、給料もボーナスも桁違いに上がった。

今の仕事と当時の仕事の収入を比べて6年間での損失を計算したら白目むきそうになった←

当時も今も、病気になったこと、病気だったことを隠さず堂々と生きてる。だって私のせいじゃないし、と思うから。強気のスタンスは健在。

 

ただ、当時の写真を見ると明らかに目がおかしいので恥ずかしい。当時はこの写真盛れたぜ〜とか思ってた。

あれだけTwitterで荒ぶって、目のおかしい私を遊びにつれ出してくれた友達、仕事を辞めると決めてから重たい体引きずって出勤する私に差し入れまで持って会社にきてくれた親友、言動のおかしい私に毎日連絡くれた友達、感謝してもしきれない。友達は量じゃない、質だ(友達少ない自分に言い聞かせてる)

ちなみに彼は当時の病気してる私も近くで見ている。よく付き合ってるよな、私なら怖くて敬遠する←

私は私で、地雷女だぞ☆って持ちネタにしてるし、彼は、鈍感なお薬飲めば?ってイジってくる。最高かよ。

 

今は全く悩みもなく、恵まれた環境で仕事もしているし、当時があったからこそ思うこともたくさんあって、今となってはそれもまた人生なんて思える。

ただ、薄給で生涯賃金下げたことだけは許せない。これからもっと稼いでやる・・・

 

そんなわけで、今日も母を脅えさせながら、水曜どうでしょうを見てます。

次回は、私の水曜どうでしょうオススメ回を紹介できればと思う。