ちょっとした余生

20代を全力疾走したせいで 今はちょっとした余生のよう

渋谷すばるは私の始祖

 

私の初めての推しの話をしたい。

 

私は渋谷すばるより10年遅く産まれている。私は早生まれのため、学年は9年違いだ。

 

そんな彼を最初に見たのは8時だJだったりする。朧げな記憶だ。

当時小学校低学年だったため、はっきり覚えているのは2001年から放送されていたUSOジャパンのほうだ。

その頃、学校ではモーニング娘。が大流行しており、毎日友達と恋愛レボリューション21でウォウウォウォウウォしていた。

思い返せば私がJ-POPに触れたのは他の人よりも遅かったと思う。

私は幼少期から食うより寝る、遊ぶより寝る、親が心配して耳元で掃除機をかけてみても起きなかったほどのスーパーおねんねベイビーだったこともあり、小学生になっても21時には寝てしまう生活を送っていた。

早く寝るが故に、宿題、晩ご飯、入浴など済ませているうちにゴールデン番組をしっかり見る時間はなくなり、当然流行りの曲などを仕入れるチャンスもなかったのである。

モーニング娘。LOVEマシーンが大流行していた時、なんの話か分からず友達に尋ねたところ、「モー娘知らないの?!」と人外なものでも見るような目で言われ、これはマズいと見ている番組を教えてもらい、必死で見た。

女社会というのは幼稚園保育園からはじまっているもので、流行りに追いつかなければ簡単にハブられてしまう。今なら絶対無理して見ない。ハブられても死にはしないから。

 

そんなこんなでJ-POPと出会い、うたばん、HEY!HEY!HEY!、Mステなど見るうちにジャニーズもバラエティの人としてではなく、アイドルとして知るようになった。

 

なぜ渋谷すばるを推すようになったかというと、中学生になってから始まったごくせん第2シリーズの存在が影響している。

もちろんごくせんに渋谷すばるは1ミリも出ていない。

ただ、ごくせんのおかげで空前の仁亀ブームがやってきたのだ。

私はちなみに赤西派である。クールな男に弱いのだ。

携帯のメール受信の着信音もムラサキだった。だいたいの女子がムラサキか絆を着信音にするもんだから、授業中にムラサキが鳴り響いたときはそれなりにビクついて、その後すぐに私は携帯持ってきてなかったわと安堵する日も少なくなかった。

 

どうも話が逸れがちになるのは癖なので気にしないで欲しい。

 

なぜ仁亀ブームで渋谷すばるなのかというと、ザ少年倶楽部を見るようになったきっかけが仁亀だから。この番組なしに私のすばる堕ちは語れない。

 

なんかジャニーズ沢山見れるぞという触れ込みで見始めたザ少年倶楽部だったが、渋谷すばるの良さに気づいてしまうのは割と早かったように思う。

気づいてしまってからは、もうすごいスピードで渋谷すばるにハマっていった。

まずは断トツの歌唱力。好き嫌いがはっきりと分かれてしまう歌声だったが、私は好きだった。

そしてビジュアル。圧倒的美しさ。ぱっちりとした目、丸くないスッとした鼻筋、そして綺麗な歯並び。手の甲の事情も多感な中学生にとっては最高にクールに思えた。

何よりツボだったのは、あのガリガリな体型。私はガリガリな男が大好きだった。

話せば面白いのに、時折見せる精神の不安定さもたまらないギャップだった。

 

いつしか仁亀ではなく、完全にeighterになっていた。

お小遣いで週刊少年ジャンプを毎週買っていたのがMyojoやポポロになり、中学3年生のときには受験を選抜1で合格して返ってきた滑り止めの私学の受験料でDVDプレイヤーとライブDVDを買ってもらい、高校生になったら絶対ライブに行くんだと鼻息荒くしていた。

 

そして、私は高校生になり、同時期に3組合同の伝説のファンクラブYou&Jが発足された。光の速さで入会した。

そして、バイトに励み、うまれて初めてのライブに参戦するのである。

関ジャニ∞ 全国1-st Tour 2∞6

ライブDVDは何度も見てきた。この日の為にヲタ友を増やし自分のテンションも高めている。準備は万全だった。

そして幕が上がり、関ジャニが私の目の前に出てきた。渋谷すばるもいる。

そんな光景を目の前にして出たセリフが「渋谷すばるって生きてるんだ」だった。

 

当たり前のことを思ってしまうくらい、渋谷すばるは儚くもそこで光っていた。

 

そこからは泥沼のようにハマっていった。しかも私の名義はなぜか座席運がすこぶるよかった。

NEWSやKAT-TUNのライブも地元に来るたび行っていたが、どのグループでもメインステ最前から5列以内、花道横、サブステセンステ最前だったためもう抜け出せなくなっていた。この座席運の良さで、友人からはラクル嬢と呼ばれていた。小悪魔ageha全盛期だったからだろうか。今口に出して読むと恥ずかしくてたまらない。

ちなみに、赤西仁は生で見たことがない。1回目は留学中だったのと、2回目は留学から戻ってコンサート参加したのが私の参戦した次の公演からだった。つくづく縁がないとはこのことだと思う。

オーラがすごいと思ったのは今も昔もただ一人、山Pだ。あんな後光のようなオーラ纏った人間を彼以外見たことがない。加藤成亮先生のうちわを持って参戦したが、しばらく成亮先生を見失うほどのまばゆいオーラだった。あれが推しなら大変だ。

 

ライブ参戦を繰り返すうちに、すばるが1曲目で姿を見せた瞬間に、今日はご機嫌がよろしくないぴえん、だの、今日はどちたのご機嫌さんじゃないの〜!なんて変な見分けまでつくようになった。

地元参戦でも1日2公演はザラだったため、2日で4公演参戦していたが、だんだん物足りなくなって大阪まで遠征し始めた。

ここから、ライブの虜になっていったように思う。

 

当時はガラケーで、できることといえばメールと電話、音楽ファイルをDLして音源聞いて興奮することと、モバスペでリアルタイム日記やブログを更新すること。ヲタとの情報交換や交流はパソコンでやっていたし、当時YouTubeTwitterがあったらもっと狂っていたような気がする。よかったような残念なような。

 

すばるのおかげで、いろんなことを体験できた。

絶対に知り合うことのなかった距離の同世代の子と友達になれた。

エイトレンジャーコスなんかしたときは、私が予想以上に手先が器用だと知ることができた。

団扇のクオリティがすごいと噂が出て、学科が違うから話すこともないと思ったeighterから団扇作成依頼もきて、その子とはのちに大阪遠征もした。団扇、材料費しかもらわなかったけど、今思えば儲けてもよかったナ・・・←

すばるが好きすぎてちょっと無理って理由で彼氏と別れたこともある。

 

遠征しすぎて感覚が麻痺して、同じクラスの親友に「EXILE興味ない?よかったら一緒にライブ行かん?大阪なんだけど。」って誘いに、大阪?全然近いじゃんいいよって二つ返事でのったせいで今の今まで尾を引くヲタク人生にまでなったのは、どうやったって渋谷すばるが始まりなのである。

 

ちなみに、高校卒業後は一緒にライブに行ってた友達がヲタ卒したことで、すばるが脱退するまで行ったり行かなかったりだった関ジャニのライブだけど、DVDだけは律儀に買い集めてた。

そして、すばるが独り立ちして発足したFCにも光の速さで入会して、ツアーも行ってきた。

うまれて初めてすばるを生で見た会場と同じ場所。なにそれエモすぎん?行くしかなくね?って仕事半休とってはじめての一人参戦。

 

今も昔も誰に対しても同担拒否だから一人参戦を選択したけどかなり心細かったし、コロナの影響でグッズも全然買えなくて出だしつまづいたけど、1曲目の「ぼくのうた」の後半の歌詞が今のすばるそのものって感じで一人号泣。重いファンかよ。一番すばるに嫌われそうだな。

泣きながらすばるを見て思ったのは、「渋谷すばるって生きてるんだ」ってこと。

何年経っても、何回見てもそう思わせる渋谷すばるを私はたとえ熱量が変わっても一生応援していきたいと思っている。

私のヲタク人生、すべては渋谷すばるから始まっているから。

 

思い返すと書くことは無限に湧いてくるんだけど、ひとまずこのくらいにして。

また何かきっかけがあれば、つらつらと書いていこうと思う。